バンドン日本人学校 卒業生の紹介

バンドン日本人学校 平成18年度卒業生 江良拓次

 僕は、この学校に幼稚部年少から中学部卒業まで、12年間通いました。キャッチフレーズであり、僕の大好きなこの学校を表したとても素敵な言葉、「大きな家の小さな学校」。これは、オランダ占領時代に建てられた大きな民家を、そのまま学校として使い、学校の生徒は、その民家で全員が学習できるほどの人数だからなのです。僕がいた頃に限って言えば、毎年の全校生徒数は、小中学部合わせて、だいたい20人ほどで、よって、1クラスの人数は4人程度でした。そのような環境ですから、僕たち園児・児童・生徒は全員が兄弟・姉妹のように仲良く、協力し合い、支え合って、楽しい学校生活を送りました。指導をしてくれる先生方は、自分の両親のように時には優しく、時には厳しく、しかし、本当の愛情を持って僕たちに向かい合ってくれました。学校を支えてくれる、お父さんやお母さん達は、全員が自分親のように感じられるほど、皆さんが僕の面倒を見てくれました。校庭には、学校のシンボルマークであるドリアンの木が、また、創立20周年記念の時に全員で植えた椰子の木が、毎年たくさんの実をつけていました。裏庭にはバナナもあり、実ると先生が、生徒全員に切り分けてくれました。このような環境の中で、僕は幼少から思春期までを過ごしました。

 最も良かったと現在感じていることは、学校では日本語で学び、生活の中ではインドネシア語を習得できる環境であったと言うこと、また、言語以外にも、日本、インドネシア両国の文化習慣などを中心とした、多くのことが学べたことです。これにより、長くインドネシアに住んでいても、日本人としての自覚を持ち、合わせて、インドネシアが持つ良いところを吸収できました。特に、2カ国語の習得は、僕にとって大きいと感じています。 現在僕は、インターナショナルスクールで英語の習得に情熱を燃やしています。英語を習得し3カ国語を駆使して仕事をする自分の将来像を描いています。


バンドン日本人学校での生活


                 北海道登別市立幌別中学校 一年 松本 海

私は、二〇〇六年四月から、二〇〇九年三月まで、バンドン日本人学校に通いました。
インドネシアに行くことを告げられた時はとても驚きましたし、初めてのインドネシアでの生活に不安でいっぱいになりました。しかし、バンドンで始業式を迎えたとき、その不安のほとんどが消えていきました。なぜなら、バンドン日本人学校の児童生徒は、みんな私を温かく迎え入れてくれたからです。『バンドン日本人学校は、大きな家の小さな学校』と、紹介されたとおり、児童生徒や先生方、お母さん方や学校にいる全ての人たちが、大きな家族のように私たちを迎えてくれました。そのおかげで、私は、一生思い出に残る三年間を、過ごすことができました

 三年間の学校生活の中で一番心に残っているのは、小学部の卒業式です。一生に一度の卒業式。この日も、バンドン日本人学校のみんなは、私を温かく送り出してくれました。私の三年間のインドネシア生活最後にふさわしい、素晴らしい卒業式をしていただきました。

また、最初の年の学習発表会で演奏した、インドネシアの民族楽器『ガムラン』も楽しい思い出です。『ガムラン』は、日本人学校近くの地元の中学校で教えてもらいました。練習で使われるのは、もちろんインドネシア語です。慣れないインドネシア語で話すのは、とても大変でしたが、日本ではできない貴重な体験で、私にとってはとても楽しい時間でした。

この他にも、ヒドゥップバル校との運動会やスティアブディー校との交流会を始め、たくさんの地元の学校の生徒との交流行事を体験することができました。交流会のたびに、インドネシア人の友達ができるので、交流会の前の日はとても楽しみで、夜も眠れませんでした。

行事だけでなく、友達にも恵まれた三年間でした。みんな、とても仲がよく、『イジメ』という言葉は三年間の間、聞いた事も言った事もありません。困ったときはお互い助け合い、生徒会や委員会も、みんなでしっかり協力して行います。昼休みには、中学生と小学生、幼稚園児までが、みんなで遊びます。一日の中で、私が一番楽しみにしていた時間でした。

バンドン日本人学校の児童生徒はみんな、『太陽の子』です。それは、離れた今も同じです。私も太陽の子として、バンドンでの思い出を胸に、これからの中学校生活を過ごして生きたいと思います。つらいとき、悲しいときは、バンドンでの思い出を思い出し、頑張ります。

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